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教科書に載っている偉人のキャリアを検証してみた

どうも!街角キャリアラボ インターン生の佐藤たかしです。
今回は、歴史の教科書に載っているような偉人に焦点を当てて、そのキャリアを検証していきたいと思います。

あ、ちょっと待って!
今、「何それ、つまんなそう」って思いました?

まあまあそう言わずに、もう少しお付き合いください。

というのも、中学生くらいから歴史が好きだった僕は、日本史の教科書や資料集を穴が開くほど読んでいたのですが、当時は「武田の騎馬隊かっこいい!」とか、「松下村塾って名前かっこいい!」くらいにしか思っていませんでした。

しかし大学生になり、偉人の経歴を現代的なキャリアの見方に当てはめて見てみると、「豊臣秀吉と藤原道長って器用にキャリア積み重ねてるな」「伊藤博文って転職でめちゃくちゃ成功してるじゃん」「この人はワークライフバランスについて聞かれたらなんて答えるだろう…」というように、現代人の持つキャリアへの価値観との関係性や、これからの進路選択に生かせそうな学びを得ることができると気づいたのです!
今回はそんな話をしていきます。

どうですか?ちょっと興味湧いてきました?

それでは早速見ていきましょう!

 

 

坂本龍馬は幕末を駆けたイノベーター?!

そのすさまじい行動力と先見の明で日本の新時代への扉を開き、「好きな偉人」「上司にしたい偉人」など、歴史上の偉人を対象にした様々なランキングで軒並み上位を獲得する、現代人から非常に人気の高い坂本龍馬。素晴らしい才覚に恵まれながらも、31歳という若さでこの世を去りました。

そんな坂本龍馬の有名な功績と言えば、265年続いた江戸幕府の15代将軍 徳川慶喜が征夷大将軍を辞した「大政奉還」の実現のために奔走したこと、明治維新への基盤となった「薩長同盟」の仲介、などでしょうか。

もちろんこれらの功績だけで十二分にすごい人なのですが、今回注目したいのは坂本龍馬が中心となって結成した「海援隊」について。実はこれ、日本で初めての商社と言われているんです。

生まれ育った土佐藩を抜けた龍馬は、幕臣・勝海舟の下で学び、そこで得た仲間とともに海援隊を結成します。彼らの主な業務は武器や軍艦といった軍需品を海外から買い付け、一部の藩へ売ることでした。いわゆる貿易業ですね。

欧米列強が開国を迫ってきたことで日本中が浮足立っていた最中、坂本龍馬は常に先を見据えていました。我々より技術も文化もずっと先を行く海外の国に対して、日本はどうすべきか、そのために自分ができることは何か。

彼の原動力はいつも社会課題の解決に向かっており、そのために日本初の商社の設立や敵対する藩同士を結び付けて世の中の流れを変えてしまうなどの、前例のないことを成し遂げてきました

今風に言えば坂本龍馬は、混迷の時代を切り開かんとするカリスマであり、社会貢献へのWillが非常に強い根っからのイノベーター気質だと表せるのではないでしょうか。そう考えれば、起業や政策提言といった突拍子もない行動も、一つの軸に沿って積み上げられてきたキャリアであることがうかがえますね。

もし彼が現代に生きていれば、NewsPicksで連載を持っていたかも。「坂本龍馬が読み解くアフターコロナ」とか。読んでみたい!

 

 

パラレルワーカーの先駆け、平賀源内

続いてご紹介するのは発明家として広く知られている平賀源内。江戸中期に生まれ、日本初の発電機「エレキテル」を発明したという功績でご存じの方も多いのでは?
ですがこの方、「発明家」と一言では表せないほど多くの実績と肩書を持っていたのです。

発明家として彼は、量程器と言われる現在の万歩計、磁針器、火浣布(燃えない布)、タルモメイトル(寒暖計)、エレキテルといった現代の生活にも大きく影響を及ぼす発明を数多く残しています。

そんな平賀源内は、発明以外にどんな仕事をしていたのか。

発明家以外の代表的な顔の1つが、文芸家としてのキャリアです。源内36歳の時、風来山人というペンネームで『根南志具佐』『風流志道軒傳』という作品を世に出します。これがとても多くの人々を魅了し、“江戸戯作の開祖”と呼ばれるようになりました。なんだかペンネームからもセンスがにじみ出ていますよね。

また、陶芸家、画家としても多くの作品を残していることからも、芸術系の才能に秀でていたことがうかがえます。

他にも、本草家(薬学、博物学などを修めた人)として多くの著作を残し、プロモーターとして日本初の博覧会を開き、コピーライターとして「土用は丑の日」を定着させる、などなど数えきれないほど様々な分野で功績を残しています。

このように様々な業種で成果を収めてきた平賀源内は、昨今注目されているパラレルワーカーの先駆け的存在と言えそうですね。現代でもまだまだメジャーとは言えないキャリアですが、いわゆる職人気質な価値観が主流の時代に、いくつもの分野にまたがって仕事をすることは、相当な変わり者として扱われていたのではないかと想像できます。

そんな彼のキャリアは一見するとバラバラのようですが、どの実績にも彼の長所である「発想力」「手先の器用さ」「観察眼」が共通して見て取れます。恐らく彼はこうした自らの適性を理解していたからこそ、51年という短い生涯のなかでこれほどまでに実績を残すキャリアを歩むことができたのではないでしょうか。

 

 

「計画的偶発性理論」の体現者、豊臣秀吉

言わずと知れた天下人、豊臣秀吉。彼は身分の低い足軽の出身ながら、前代未聞の大出世を遂げました。そんな彼の輝かしいキャリアは、心理学者ジョン・D・クランボルツによって1999年に発表された「計画的偶発性理論」から紐解いていくことができます。

「計画的偶発性理論」とはキャリア理論の1つ。
変化の多い時代において未来を予測するのは難しく、個人のキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される。そこで、「好奇心」「持続性」「楽観性」「柔軟性」「冒険心」という5つの行動指針を持つことで、偶発性を計画的に導きキャリアアップを実現していく。

難しい言葉が並びますね。ざっくり説明すると、「人生は何が起こるか分からない。だからチャンスを待ってないで奪いに行け!」みたいな感じでしょうか。クランボルツ先生ってけっこうスポ根なんですね。

そしてこれは、秀吉が天下取りを達成した要因と大きく重なっていきます。

 

家を出て後、秀吉は10代後半ごろから織田家に仕え始めます。その生活の中で秀吉は、寒い日に信長の草履を懐で温め、城の工事を組ごとに分けて早く終わった組に報奨を出すことで工期を短縮するなど、機転を利かせて仕事をこなしていきました。

この辺りは理論でいうところの「好奇心」「持続性」「冒険心」といったマインドの表れと言い換えることもできそうですね。こうした工夫を評価され、秀吉は信長に気に入られたことで異例の出世を遂げます。

 

ここから秀吉は築城や戦いなど多くの重要な仕事を任され、失敗や成功を繰り返して織田家での地位を確固たるものにしていくわけですが、そのすべてに言及していては今回の記事の趣旨が変わってしまうので割愛させていただきます。

ただ一つ言えるのは、多くの壁にぶち当たりながらも逆境をはねのけていった実績から、秀吉には「楽観性」(ポジティブシンキングとその遂行への強い意志)が備わっていたと推察できます。弱気で意思が弱ければ、ピンチに飲まれてしまいますよね。

 

そして秀吉のキャリアにとって最も大きなターニングポイントと言うべき「中国大返し」を迎えます。

1579年、秀吉は備中高松城(現在の岡山県)で戦を行っていました。しかし、相手方も引かずもどかしい日々が続きます。そんな折、信長の死という驚きの知らせが飛び込んできます。そう、世に言う「本能寺の変」です。

こんな状況ではパニックに陥りそうなものですが、ここで秀吉は進行していた戦を早々に切り上げ、即座に本能寺のある京へと軍を引き返します。現在の岡山から京都までその距離なんと230km。それをわずか10日間で走破したのだとか。

ここが天下を取る大チャンスだと分かっていたのでしょう。配下の兵に姫路城(兵庫県)の米や金銭をすべて分け与え京にて信長を討った明智光秀を討ち取り天下統一を確かなものにしたのでした。

特筆すべきはその「柔軟性」。この機会をチャンスと見るや長引いていた戦を講和にし、自らの資本のほとんどを兵に分け与え、230kmを駆け抜ける。この柔軟な判断力こそ、秀吉が他の家臣を差し置いて功を上げることのできた要因だと言えるでしょう。

 

こうしてみると、豊臣秀吉はクランボルツ氏の唱える5つの行動指針を満遍なく十分に備えていたことで“偶発性をコントロール”し、歴史上稀にみるキャリアアップを実現したことがわかりますね。

現代社会に生きる我々にとっても、この5つの行動指針を持って行動しチャンスを掴みとろうとする姿勢が非常に重要だということがお分かりいただけたのではないかと思います!

さすがにリアル天下取りはスケールが大きすぎるかもしれませんが…

 

 

最後に

いかがでしたでしょうか?

今までは、歴史上の偉人と言っても「教科書に出てくるすごい人」「テストの答え」程度にしか思っていないかもしれません。ですが、実は先人の歩んできたキャリアを紐解いていくことは、現代に生きる我々にとって大きな学びとなり、自分らしい人生を歩んでいく上で参考にすべき発見が数多く眠っているのではないでしょうか?

ぜひ皆さんも興味のある人物のキャリアについて調べてみては?意外な発見や、自分の今後の将来設計に生かせる学びが見つかるかもしれません!

それでは!

 

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